ミステリー短編小説『静寂を葬る影』
第一章 都会の狭間に滲む不穏
東京の西側。ビル街の谷間にひっそりと生き残る古い商店街があった。昭和の香りを色濃く残す低い建物が並び、そこだけ時代に取り残されたような懐かしさを漂わせている。舗装もところどころ剥げかけた細い路地には、傾きかけた看板や煤けた提灯がぶら下がっていた。メインストリートに面したビル群の華やかな灯りの裏側に、こんな世界がまだ残っているのかと、初めて足を踏み入れた者はどこか不思議な安堵を覚える場所だった。
しかし、今夜は妙な空気が広がっている。やけに静かで、風の音さえも耳障りなくらい強調される。路地裏のどん詰まりにある、看板すら消えかかった喫茶店「ローデンバッハ」の扉を、ある男が開けた。
男の名は「那須圭吾(なす けいご)」。フリーのジャーナリストとして、雑誌からネットメディアまで幅広く記事を書き、時には警察の協力者として事件現場に出入りすることもある。彼は自分で“ジャーナリスト兼・探偵まがい”などと冗談めかして言うが、近年は警察からの正式な依頼も増え、ほとんど「特別捜査官」のように振る舞っていた。
那須は、この退廃的な商店街に抱く何とも言えない愛着を忘れられず、ときどきふらりと立ち寄る。理由は単純、ここで飲むコーヒーが妙に好きで、そして店主の話がまた面白いからだ。閉店間際のローデンバッハに腰を下ろすと、店主の古澤(ふるさわ)がいつものように淡々と話しかけてきた。
「那須さん、今日は遅かったねえ。寒くなってきたし、何かあったのかい」
「いや、ちょっと取材帰りにね。ここのコーヒーで一息つきたいだけさ」
古澤はそれ以上詮索することなく、コーヒー豆を挽く。ガリガリと渋い音がする手回しのミルも古ぼけている。店の奥には古い蓄音機が飾られ、かすれたジャズのレコードが鳴ることもあるが、今夜は静寂が優勢だ。
那須はいつもの苦味の効いたブレンドを飲みながら、ぼんやりと今後の仕事の段取りを考えていた。遠からず、ある大きなスクープが飛び込んでくると噂されている。新興企業の役員が不正献金に絡んでいるらしいと、密かに嗅ぎ回っている最中だ。ネタが転がり込めば忙しくなるだろうと、その半面、どこか危険な予感もする。
そんな漠然とした不安感のまま、那須は一杯を飲み干した。マグを置くと、勘定を済ませて店を出る。珍しく、店主の古澤が玄関先で見送りの言葉をかけてきた。
「また、何か事件が起こりそうな空気だね。気をつけて帰りなよ」
この言葉には根拠があった。古澤はかつて警察官だった経歴を持ち、その頃の勘を失っていないのだという。和やかな物腰だが、時折見せる鋭い視線は、かつて捜査一課にいたという噂を裏付けるものがある。
那須は冗談めかして右手をひらひらと振り、閑散とした夜の街へ消えていった。そう、彼自身も何かが起こりそうな予感にうっすら気づいていた。それがどんな形で訪れるのかまでは、まだ想像がつかなかったが。
第二章 洋館の呼び声
一週間後。那須はある奇妙な依頼を受けた。「あなたに話したいことがある」という、差出人不明の手紙が届いたのだ。しかも封筒には、昭和の書体を思わせる古めかしい文字が躍っている。まるで放置されていた資料の中から引っ張り出されたような紙質の便箋には、宛名として那須の名前が丁寧に書かれ、差出人欄には「東雲燐(しののめ りん)」とだけあった。
手紙には、都内から車で三時間ほど離れた地方都市の外れに存在するとされる“洋館”に来てほしいと記されていた。そこはかつて使われていた高級リゾートホテルの一部が廃墟状態になり、もう誰も住んではいないと聞く。それが近年、海外の投資家が買い取ったとか、廃墟好きの間で有名な心霊スポットとして噂になったとか、様々な憶測が飛び交う物件だった。
依頼の内容は書かれていない。ただ、会って話すべき重大な秘密があるという。那須は警戒しつつも、ジャーナリストとしての興味が先に立つ。自分の名前を知っている人物が、わざわざそんな妙な場所に呼びつける理由とは何なのか。
週末、那須は自家用車を走らせる。季節はちょうど秋の終わりから初冬にさしかかる頃合い。高速道路のインターチェンジを降りた途端、あたりは閑散とした山道になり、遠くに薄茶色の木々が広がっていた。
手紙の地図を頼りに目指す先は、山道をさらに奥へ進んだところにあるらしい。スマートフォンの地図アプリでも正確には表示されない。「さすが、わざわざ呼び出すにはふさわしい場所だな」と那須は苦笑する。
やがて視界に入ったのは、重厚な黒い門。レンガ造りで、ところどころ苔が生えており、まるで別世界への入り口を暗示しているかのようだ。門の奥には、鬱蒼とした木立の合間に姿を隠す古びた洋館の屋根が見え隠れしている。
那須は車を門のそばに停めた。すると、意外にも門はきしんだ音を立てながら少しだけ開いており、人一人がかろうじて通れる隙間を残している。誰かがこの先にいるのだろうか。
足を踏み入れると、乾いた落ち葉がざくざくと音を立てる。晩秋の冷え込んだ空気を感じながら、那須は屋敷へと続く細いアプローチを歩く。
そして視界が開けると、やはりそこには見事なまでに荒れ果てた洋館が佇んでいた。かつては白亜を誇っていたであろう外壁は、今は灰色にすすけ、窓ガラスの多くは割れている。玄関の扉は閉じているが、鍵がかかっている様子はなく、ひび割れた床のタイルの上に落ち葉が散乱していた。
おそるおそる扉に手をかけ、那須は中へと足を踏み入れる。中は思ったより広く、吹き抜けになった天井には古そうなシャンデリアがぶら下がっている。照明は当然ながら点いていないが、昼間の外光が窓から差し込むため、薄暗いながらも構造は何とか把握できる。
那須は軽く声をかけた。「すみません、どなたかいますか」。
返事はない。だが、埃っぽい空気の中にほんのわずか、人の気配のようなものを感じる。足跡か何かが聞こえる気がしたが、錯覚かもしれない。
「まるで、お化け屋敷にでも来た気分だな」
そう呟きながらも、手紙の差出人・東雲燐という人物を捜して、一歩ずつ奥へと進む。すると、二階へと通じる階段のそばに、とても新しい足跡があることに気づいた。古びた床板の上に、明らかに自分以外のシューズの跡が続いている。那須はそれを辿りながら、階段を上がっていく。
二階へ着くと、左手は廊下が続いており、複数の客室らしき部屋の扉が並んでいた。廊下の一番奥の扉が微妙に開いている。そこからかすかに人の動く気配を感じた。
那須は再び声をかけようとするが、先に扉の内側から声が聞こえてきた。
「あなたが那須圭吾さん、ですよね」
控えめだがはっきりした声。廊下に漏れ出す陽の光で扉の向こうを見ると、やせぎすの女性が立っているように見えた。腰まである長い黒髪と、落ち着いた和服姿が妙にミスマッチだ。まるで大正時代から飛び出してきたような雰囲気さえ漂っている。
那須は少し警戒しながらも、そっと扉を開ける。部屋の中は比較的まだ綺麗に保たれており、奥の窓ガラスは割れていない。かつては豪華な調度品が置かれていた形跡があるが、今はほとんどが処分されているようだ。
「僕が那須です。あなたが東雲燐さん?」
声の主は頷いた。年齢は二十代後半か三十代前半くらいに見えるが、はかり知れない雰囲気を纏っている。まっすぐ那須を見つめる瞳は不安と決意が交錯しているようだ。
「はい。急に呼び立ててすみません。でも、どうしてもここでお話ししたいことがあったんです」
言葉づかいは丁寧だが、どこか余裕がない。那須は軽くあごを引くように頷き、続きを促した。
「ここに来るまで随分苦労しましたよ。何か重大な秘密があるとか?」
「ええ、そうです。実は――」
そこまで言いかけたとき、不意に建物全体がぎしりと軋んだような音を立てた。そして、二人の耳を裂くように――ズドン! と巨大な破裂音が玄関付近から聞こえたのだ。
驚いて顔を見合わせる二人。その直後、廊下の先から慌ただしい足音が近づいてくる。何者かが、急いで階段を駆け上がってくるようだ。
第三章 謎の来訪者
激しい足音とともに部屋の外に姿を現したのは、若い男だった。紺色のジャケットにジーンズという軽装で、まだ幼さの残る顔つきだが、目は鋭い。そして何より、その胸に下げているのは警察手帳に似たもの。
男は那須と燐を見比べると、息を切らしながら叫んだ。
「あなた方、ここで何をしている! 危険だからすぐ外に出ろ!」
那須は怪訝そうに問い返す。「危険って、何があったんだ?」
「爆発音がしたんだ! 玄関ロビーのあたりで――火が出ているかもしれない。避難しないと!」
燐は青ざめた顔で、那須にしがみつくような視線を向けた。「爆発、ですか……? まさか……」
那須は意を決して顔を上げる。「とにかく一度、外に出ましょう。ここに留まっているのは得策じゃない」
三人は連れ立って階段を駆け下りる。しかし、降り立った一階のロビー近くは、少なくとも火の気は見えないものの、壁に大きな亀裂が入っており、埃が舞っている。どうやら古くなった壁か床が何らかの衝撃で崩れ落ちたらしい。
那須たちは確認した後、洋館の外へ出た。玄関前のタイル部分が部分的に崩れ、粉塵が舞っている。遠目には火災は起きていないが、ただならぬ様子である。
外に出てやっとひと息つくと、紺色ジャケットの男は那須をにらみつけるように言った。
「あなた、那須圭吾さんですよね? 捜査に協力しているジャーナリストの。自分は警視庁捜査二課の藤橋理久(ふじはし りく)です。何故、こんな危険な場所に?」
「俺は東雲さんの呼び出しでここへ来たんだ。火薬でも仕掛けられていたのか? それともガス漏れか……」
藤橋は言葉を濁したが、目を伏せるようにして小さくうなずく。「詳しい状況はまだ把握してませんが、どうも仕掛け爆弾の可能性があります」
「爆弾……?」燐が呆然とつぶやく。
「ええ。実は最近、都内近郊で廃墟や空きビルを狙った小規模な爆破未遂事件が相次いでいるんです。まだ公に報道されていないが、捜査線上に複数の犯行グループが浮かんでいて……ここもその標的になっていた可能性がある」
那須は苦い表情で藤橋を見る。「なるほど。君はその内偵でここを張っていたんだな」
「そういうことになります。あなたがここに来るなんて聞いてなかったから、驚いた。危うく巻き込まれかけましたね」
燐は肩を震わせて立ち尽くしている。慣れない状況に混乱しているようだ。那須はそんな彼女を気遣い、「大丈夫か?」と声をかける。彼女は首を横に振って、涙目でつぶやいた。
「私、こんなことになるなんて思わなかった……。何も知らず、ただ那須さんを呼び出しただけだったのに」
「仕方ない。とりあえず、ここから離れましょう。警察に一報入れるべきですね」
藤橋はすでに無線で仲間に状況を報告している様子だった。「応援要請します。爆破の痕跡がある。負傷者はいまのところなし……」
那須は煙る廃墟と化した洋館を振り返る。そこにはいまだ、何かが潜んでいるのではないかという不気味な気配があった。しかしこのままでは、まともな調査などできないだろう。
こうして予想外のアクシデントに見舞われ、東雲燐が「重大な秘密」を語る機会は先送りとなった。だが、これが今後大きな事件へとつながる序章となることを、那須はうすうす感じていた。
第四章 捜査会議と各々の思惑
翌日、那須は警視庁の分室とも言えるビルの一角へ呼び出されていた。藤橋から「今回の件で詳しい状況を聞きたい」と連絡があったのだ。
この分室は警察内部の一部の捜査官が使う場所で、表立って公表されていない組織犯罪対策室とも兼ねているらしい。長い廊下を通され、簡素な会議室に案内されると、そこには先客がいた。
一人は、やたらと彫りの深い顔立ちをして、髪をオールバックにまとめた男性。年齢は四十代半ばくらいか。スーツの仕立てが良い。もう一人は、くたびれた印象の男性で髪が少し薄い五十代、ややダークブラウンのスーツを着ている。こちらはどこか人の良さそうな眼差しだが、時折チラリと鋭い目つきを見せる。
オールバックの男が先に口を開く。「ああ、あなたが那須圭吾さんですね。私、警視庁捜査二課の課長補佐を務める久世(くぜ)と言います」
「そして私は捜査一課に籍を置く関根(せきね)と申します」もう一人が続く。
那須は軽く頭を下げた後、部屋の奥に目をやる。そこには藤橋と、その隣に東雲燐が座っていた。燐は昨夜の爆破未遂騒動で相当ショックを受けたようで、顔色が優れない。
久世が話を進める。「まず、今回の廃墟爆破未遂事件については、やはり何者かが仕掛けた即席の爆弾が爆発したとみています。被害は軽微で負傷者はいませんが、下手をすれば巻き添えになっていたかもしれない。現場検証でいくつかの証拠が見つかりましたが、まだ詳細は開示できません」
「あなたが現場に行ったのは、東雲燐さんの依頼だったとか」関根が那須に尋ねる。
「ええ。手紙をもらって、洋館で話があると。正直、中身はよく分からないまま呼ばれたので、行ってみたらあの騒ぎでした」
久世は一瞬、燐に冷ややかな視線を向ける。「東雲さん、あなたはそこで何を話そうとしていたのかね。こんな危険な廃墟に呼び出すなんて常識はずれもいいところだ」
燐は居心地悪そうに言葉を濁す。「すみません。でも、あそこは私にとって……特別な場所でもあるんです。あの洋館は、かつて私の祖父母が経営していたリゾートホテルの一部でした。今は廃墟と化してしまいましたが、昔は盛況で――。そこでしか話せないと思ったことがあるんです」
那須は思わず燐を見やる。「東雲さん、そんな経緯があったんですね。だからあの場所を選んだのか」
燐はわずかにうなずき、続けた。「私が那須さんを呼び出したのは、ある殺人事件のことを知ってほしかったからです。十数年前に、あのホテルで不可解な死があったんです。表向きは事故死とされたのですが、当時の私はまだ子どもで、納得がいかない点が多すぎると思っていました。最近になって、その事件にまつわる証拠らしきものを見つけたんです。だけど、どこに相談すればいいか分からなくて……。那須さんが有名なジャーナリスト兼、“探偵のような存在”だと知り、思い切って連絡しました」
その言葉に、久世と関根は顔を見合わせる。藤橋も真剣な表情だ。
「十数年前の殺人事件……?」那須は胸の奥で何かがざわつくのを感じた。「具体的にどんな出来事だったんです?」
燐は言葉を探すようにゆっくりと話し始めた。「亡くなったのは、当時ホテルに宿泊していた若い女性でした。名前は山吹文乃(やまぶき ふみの)さん。客室のバスルームで倒れているのが見つかり、外傷はなかったけれど浴槽の水に浸かった状態だったそうです。警察は事故死と断定したのですが、祖父母は『何か腑に落ちない』とずっと言っていて……。当時、その方だけではなく、別の宿泊客が急に失踪するという奇妙なことも重なっていたらしいんです」
話を聞いていた藤橋は、口を挟む。「殺人事件かどうかも定かじゃない以上、警察としては当時の記録を確認する必要がありますね。ただ、十数年前か……時効はどうなっている?」
関根が補足する。「殺人事件であれば時効は二十年だから、まだ猶予はあることになる。しかし事故死で処理されている以上、再捜査を行うには新たな証拠が必要だ」
燐は不安気に顔を伏せる。「それが、私が最近見つけた“あるもの”と関係があるんです。廃墟となったホテルの管理棟の倉庫を片付けていたら、山吹さんが亡くなる前日に書いたらしき手記が出てきました。そこには誰かの名前を記して『命の危険を感じる』と書かれていたんです。でもその名前が読み取れなくて……部分的に雨水でにじんでしまっているんです」
「それで、場所自体を見ながら話をしたかったというわけか。なるほど」那須は合点がいったようにうなずく。しかし、それが爆破未遂という騒動を招いてしまったのは、とんだ皮肉だった。
久世は視線を鋭くさせる。「東雲さん、あなたが廃墟へ出入りしているのを誰かに知られていた可能性はあるかね? その“誰か”が爆破を仕掛けたとしたら、あなた自身が狙われている危険性もある」
その問いに、燐ははっと息をのみ、わずかにうろたえた。「わかりません。でも、あのホテルには昔からいろいろな噂があるし、最近まで某国の投資家が買い取りたいとか、廃墟マニアが勝手に侵入しているなんて話も……。誰かが私の行動を見張っているなんて、考えたこともありませんでした」
会議室に沈黙が落ちる。関根は静かに口を開く。「いずれにせよ、我々警察は今回の爆破未遂と、十数年前の不審死との関連性を探る必要がある。那須さん、あなたも引き続き捜査に協力していただけますね?」
「もちろん。そのために呼ばれたんでしょう? 少なくとも東雲さんが抱えている秘密を解き明かさないと」
こうして、十数年前の疑惑の死、廃墟ホテルでの爆破未遂、そして燐が見つけた手記――これらが一つにつながり始めた。那須は胸の奥で、久々に強い高揚感を感じていた。だが同時に、何か言い知れぬ不穏さも大きくなっている。
第五章 容疑者たちの肖像
那須はさっそく、かつてホテルに出入りしていた関係者や、山吹文乃の交友関係を探り始めた。十数年前という時間の隔たりは大きいが、当時に働いていたスタッフの一部は今も健在で、別のホテルや旅館で働いている者もいた。
そうして浮かび上がってきた名前がいくつかある。その中から、特に「この人物は怪しい」と那須が目をつけたのは以下の数名だ。
1. 財津真知子(ざいつ まちこ)
当時、ホテルのフロント係をしていた女性。山吹文乃と親しく言葉を交わしていた目撃証言がある。最近は地方の温泉旅館で働いているという。
2. 沼田征人(ぬまた ゆきと)
かつて調理スタッフのリーダーで、ホテル内のレストランを切り盛りしていた。山吹文乃の死後、急にホテルを辞めて行方をくらませたという噂がある。
3. 澤地彩香(さわち あやか)
文乃の大学時代の友人で、ちょうど旅行に同伴していたらしい。事件当日はチェックインが遅かったという記録があるが、その後の足取りが不明瞭。現在、都内の高級ホテルでコンシェルジュをしている。
4. 鳳来雅春(ほうらい まさはる)
当時、ホテルの経営コンサルタントとして出入りしていた謎の人物。オーナー一族とも親しかったようだが、文乃の事故死直後に契約を打ち切られ、姿を消したという。
那須はこれらの人物に当たりをつけ、藤橋や関根、さらに久世の協力を仰ぎながら、それぞれにコンタクトを取り始める。
数日後、まずは財津真知子への接触に成功したと藤橋から連絡があった。「彼女は少し前から温泉地で働いている。ちょうどその温泉地で、今回の捜査に関連しそうな別件があってね。俺が上司と出張がてら話を聞いてきたら、どうやら山吹文乃のことを何か知っていそうだ」
「それはありがたい。俺もすぐ行くよ」
那須はそう言って藤橋と合流し、財津真知子が働いているという温泉旅館を訪ねることになった。そこは都心から離れた静かな山間の温泉街で、今の季節は紅葉シーズン真っ只中だ。立ち上る湯煙が幻想的な雰囲気を醸し出している。
旅館の離れにある従業員用の休憩室で、財津真知子は待っていた。三十代半ばくらいの落ち着いた女性で、白い旅館スタッフの制服に身を包み、長い髪をきちんとまとめている。人当たりは良さそうだが、何か事情を抱えていそうな、沈んだ陰を帯びた眼差しが印象的だった。
藤橋は彼女に名乗った後で、那須を紹介した。「ジャーナリストで、今は警察に捜査協力していただいている那須さんです」
那須が軽く会釈すると、財津は小さく頭を下げる。「あの、山吹文乃さんのことでしょうか。私は何も大したことは知りません。ただ……亡くなる直前に、フロントで少しお話をしただけで」
「どんな話を?」那須が穏やかに尋ねる。
「ええと……文乃さん、とても焦っている様子でした。『誰かにつけられている気がする』とか、『早く帰りたい』とか……。でも、詳しくは語ってくれなくて、ただ不安そうにしていました」
「その“誰か”について、彼女は何か特定していなかったんですか?」
財津は首を振る。「いいえ。ただ、思い詰めたような顔で『明日になれば……きっと』と言うんです。まるで、何か決定的な証拠を掴もうとしていたのか、あるいは逃げようとしていたのか……」
那須は心の中で、燐が言っていた“手記”に思いを馳せる。そこにも“誰かの名前”が記されていたとされる。まさに、その名前こそが謎の核心なのかもしれない。
さらに財津は言葉を継いだ。「私はあの夜、遅番のフロントを担当していました。文乃さんが部屋に戻る際に、『決して一人にしないでください』と頼まれて……。でも、他のお客様の対応もあって、付き添うことはできなかったんです。そしたら翌朝、彼女は……」
そう言うと、財津の瞳には涙がにじんだ。那須はそっと言葉をかける。「お気の毒でしたね。文乃さんは本当に怖い思いをしていたのかもしれない」
すると財津は少しうつむいたまま、こうつぶやいた。「ひとつだけ、今でも気にかかっていることがあるんです。文乃さんが亡くなる前日、ある男性が彼女の後を追うように廊下を歩いているのを見たんです。顔ははっきり見えなかったけれど、スーツ姿で背は高め。従業員ではないと思います。宿泊客か、外部の人間か……。でも、どこかで見たような気もして……」
「それは何時ごろ?」藤橋が食い気味に質問する。
「夜の十時か十一時くらいだったかと。あとから考えれば、あの人こそが文乃さんをつけ回していたのかな、と……」
そう言い残すと、財津は「もうお話できることはこれくらいです」と言って、帰っていった。那須は彼女の背中を見送りながら、事件当時の状況を思い浮かべる。十数年前の不審死。その背景には、追い回していた謎の男の存在があった。彼がもし犯人だとしたら――いや、まだ断定は早い。
こうして浮かび上がった“スーツ姿の男”。そこに沼田征人や鳳来雅春の姿が重なるのか、それともまったく別の人物なのか。那須は混濁する思考の中に、新たな興味が湧き上がるのを感じていた。
第六章 高級ホテルの影と真相への糸口
捜査の一環として、那須は都内の高級ホテルを訪れた。そこには、山吹文乃の大学時代の友人・澤地彩香がコンシェルジュとして勤めている。彼女に直接会って話を聞くのだ。
ロビーに入ると、煌びやかなシャンデリアや大理石の床が豪奢な雰囲気を醸し出している。那須は受付に声をかけ、約束していた澤地を呼び出してもらった。
ほどなくして現れた澤地彩香は、さすが高級ホテルのコンシェルジュだけあって洗練された物腰を持ち、美しい笑みをたたえている。だが、その笑みの裏に一瞬、動揺のようなものが見えた。
「那須様ですね。お待ちしておりました。ご用件は、山吹文乃さんの……こと、ですよね」
那須は頷く。「ええ、急にお邪魔して申し訳ない。少しお時間をいただけますか?」
「承知しました。あちらのラウンジへどうぞ」
二人は人目の少ない一角に移動し、ソファに腰を下ろす。上品なクラシック音楽が流れているが、どこか落ち着かない空気が漂う。
先に口を開いたのは澤地の方だった。「文乃さんが亡くなったのは、私たちが大学を卒業してすぐの頃でした。大変ショックでしたし、私自身、少し疑問に思うことがあったのですが、警察が事故と判断したことで、そのままになってしまいました」
「疑問というのは……?」那須が水を向ける。
「彼女とは大学時代、旅行のサークル活動で知り合って、仲が良かったんです。今回の旅も、本当なら私が一緒に泊まるはずだった。でも、私は仕事の都合で日程がずれ、結局到着が遅れたんです。あの夜、文乃さんの携帯に連絡を入れたのですが、何度かけてもつながらなかった。そのあと、朝になって……あんなことに」
澤地は俯き、唇を噛む。「文乃さんはどうやら、何か重大な秘密を掴んでいたようです。私に“ある人物の不正”を暴く手助けをしてほしいと頼んできたんです。だけど私は忙しくて、ちゃんと話を聞く暇もなく……。結局、彼女は一人で行動してしまった」
「“ある人物の不正”とは、具体的に誰のことか聞いてませんか?」
「名前までは……でも、ホテルのオーナー関係者か、コンサルタントだとか。誰かが裏で不正取引をしていて、かなり大きな利権が動いているんだと……」
その言葉に、那須は思わず「鳳来雅春か……?」と心の中でつぶやく。鳳来雅春は当時、ホテル再建のためのコンサルとして関わっていたはずだ。もし裏で金の流れがあったとすれば、山吹文乃がそれを突き止めかけたというシナリオはあり得る。
「澤地さん、その不正について、何か具体的な書類や証拠を文乃さんが持っていたという話は知りませんか?」
「書類というより、録音データか何かを手に入れたと言っていた気がします。私に相談したときには、すでに『消されるかもしれないから』と物騒なことを言っていました。私は大袈裟だと思って相手にしなかったけど……」
澤地はそこで言葉を切り、改めて那須を見つめる。「今になって思うと、彼女の死はやっぱり事故じゃなく、誰かに殺されたんじゃないかって。でも、それを証明できるだけの材料が見つからなくて……。私もずっと後悔していました」
那須は小さく息をつき、穏やかに言った。「澤地さん、貴重な話をありがとう。もし何か思い出したり、連絡があればすぐ教えてください。文乃さんのこと、絶対に無駄にはしませんから」
澤地は涙をこぼしそうな目で頷いた。そして小声で付け加える。「実はもう一つ、気になることがあるんです。文乃さんが亡くなった翌日、彼女の荷物の中にあった日記帳が行方不明になっていたらしいんです。警察に聞いても見つかっていないと……。あの日記帳には、彼女が調べていた情報が書かれていた可能性がある。もしもそれを誰かが持ち去ったのだとしたら……」
那須はじっと目を閉じ、脳内でピースをはめ込んでいく。廃墟となったホテルの爆破未遂、燐が見つけた手記、そして文乃の日記帳の行方。すべてが一つの線で結ばれようとしている――そう確信し始めていた。
第七章 仮説と不穏な再会
那須は警察サイドに報告をあげ、関係者を順次洗い出していく。その過程で、「鳳来雅春」という名がやはり浮かび上がった。彼は過去にも企業の買収や再建業務に携わっては、不可解なトラブルを残して姿を消すことがあるらしい。しかも、裏社会の資金源とつながっていたという噂もある。
一方、沼田征人という元調理スタッフの所在は依然としてつかめず、行方不明に近い状況だった。とにかく怪しい人物ばかりが揃い、那須は頭を悩ませる。
そんな中、那須のもとに一本の電話が入った。相手は意外にも、久世課長補佐だった。
「那須さん、ちょっと厄介な情報が入ってきた。鳳来雅春が、どうやら都内のホテルに潜伏している可能性があるんだ。警察としても彼の身辺を洗うつもりだが、まさか彼が今回の廃墟爆破にも関わっているのか……まだ断定はできない」
那須は考え込む。「廃墟爆破の狙いが、あの手記を隠滅することだったとしたら、確かに彼がやりそうな手段だ。でも直接手を下したのか、別の手先を使ったのか……」
「とにかく、我々も全力で調べる。その間、あなたは東雲さんの保護に気を配ってくれないか。彼女は可能性として“狙われる側”に立っている。ほら、先日から何かと危険な目に遭っているだろう?」
確かに、那須も燐を放っておくのは不安がある。「わかりました。彼女にも念のため、何かあればすぐ連絡するように伝えておきます」
電話を切った直後、那須のスマートフォンにメッセージが入る。差出人は東雲燐だった。短い文章だったが、そこには彼女の動揺が滲んでいた。
「昔の知人が突然訪ねてきて、妙な質問をされた。私がホテルの廃墟に行ったことをどこかで知ったみたい。怖いから、会ってほしい」
那須はすぐに返信し、午後の予定をキャンセルして燐の住まいへ向かった。燐は都内のマンションに住んでおり、オートロック付きの、わりと新しい物件だ。
部屋のチャイムを鳴らすと、怯えた顔の燐がドアを開ける。「ごめんなさい、急に呼び出して……」
那須は促されるまま部屋に入る。落ち着いた内装だが、テーブルには書類やノートパソコンが散乱している。きっと彼女なりに事件を追いかけようとしていたのだろう。
「で、その“昔の知人”って誰?」
「財津真知子さんのことで少し話したことがある人物みたいです。でも私、面識があるかどうか微妙なんです。中学の頃に顔を合わせたかな……って程度。さっき突然、インターホン越しに『あなたが廃墟に行ってるって聞いたけど、あそこに何があるの?』と問い詰められて……。怖くて部屋にはあげませんでしたが」
「名前は名乗った?」
「『余所の者です。ちょっと確認したいだけ』とか言って、名乗りませんでした。髪を短く刈り込んだ、中年くらいの男性でした」
那須は腕を組む。「鳳来雅春……ではないか。いや、彼は中年より少し上の世代かもしれない。誰かの手先かもな」
燐は身震いした。「私、何か大きなことに巻き込まれてしまったんですね。祖父母が経営していたホテルの件に触れた途端、こんなにも……」
「一緒に真実を突き止めましょう。それが、あなたがずっと抱えていた疑問を晴らすことにもなるはずですから」
那須の言葉に、燐は少しだけ安心したようで、弱々しく微笑む。「ありがとうございます。実は、あの手記について新しい発見があったんです。にじんでいた部分を赤外線スキャナで読み取ろうとしたら、一部の文字が浮かび上がってきたみたいで……」
彼女はノートPCを開き、スキャン画像を那須に見せる。そこには薄く黒い斑点のようなものが映り、何とか判読できそうな文字が並んでいた。
「こ、れは……『ヌ』と『マ』の字か? 『沼……?』」
那須は驚きの声をあげる。「もしかして、沼田征人の『沼田』なのか?」
もしそうだとしたら、山吹文乃が“命の危険を感じる”相手とは沼田征人である可能性が高い。だが沼田は行方がつかめない。
「やっぱり、沼田さんが……?」燐はショックを受けた様子だ。
「断定はできないが、そういう可能性が浮上した。彼は調理リーダーだったが、なぜか事件後すぐに失踪している。鳳来雅春をはじめ、他にも怪しい人物はいるけど、沼田が一番の容疑者になりそうだ」
そして那須は決意を固める。「こうなったら、俺は何とか沼田を探し出すよ。必ず見つけて、問い質してみせる。あなたはそれまで、なるべく外出を控えて身を守ってほしい。何かあったらすぐ警察に通報してくれ」
燐は深くうなずいた。「わかりました。でも、私もできる限り協力します。文乃さんのためにも――そして自分自身のためにも」
薄暗い部屋の中、二人の想いが交錯する。十数年前の闇が、いよいよ姿を現そうとしているのだ。
第八章 地方の温泉街に潜む真実
那須と藤橋は協力して、沼田征人の行方を追う。彼が最後に目撃されたのは、どうやらある温泉街の食堂で働いていたという噂があったが、それも数年前の話らしい。
手がかりは途切れ途切れだ。だが、財津真知子が勤める温泉旅館の系列施設には、かつて沼田らしき人物が出入りしていた形跡がある。二人は再びその温泉地へ向かうことにした。
夜遅くに旅館に到着すると、藤橋がフロントで財津を呼び出す。もう就寝時間に近いが、何とか時間を取ってくれた。財津は少し困惑した様子を見せながら、小声で言った。
「沼田征人さんのこと、確かにこちらに来ていたという話を耳にしたことはあります。でも、最近は姿を見ませんね……。この街の裏通りに、小さなバーがあって、そこに出入りしていたとか……」
那須は食いつく。「そのバー、今夜でも行けますか?」
「ええ、遅くまで開いているはずです。名前は『月影』といって、元々、移住してきた人が細々とやっている店で……」
「分かりました。ありがとう。もし何かあればすぐ連絡を」
こうして那須と藤橋は、やや怪しげな通りにあるバー「月影」へ向かった。ネオンサインがちらほら残る寂れかけた飲み屋街の一角で、古びた看板が控えめに明かりを放っている。扉を開けると、驚くほどこぢんまりとした空間。カウンターに座っている客は一人か二人だけだ。
マスターらしき初老の男性が「あらいらっしゃい」と声をかけてくる。那須たちはカウンターの端に腰を下ろし、軽くビールを注文した後、本題を切り出す。
「すみません、沼田征人という男を探しているんですが……この店に出入りしているという噂を聞きまして」
マスターは一瞬、警戒するように目を細めた。「ああ、沼田……最近は来てないねぇ。昔はちょくちょく顔を出してたけど、ふらっと消えてしまったよ。何かあったのか?」
「いえ、ちょっと会いたいだけで……どこか別のところで見かけたとか、ご存知ありませんか」
「さあ、あいつは風来坊みたいな男だったからね。食堂で働いていたかと思えば、いきなりいなくなって。あんまり深くは知らないよ」
そこへ、常連客らしき中年男性が話に割り込んでくる。「沼田なら、つい最近まで川向こうの古いアパートに住んでたって聞いたぞ。でも家賃を滞納して逃げたとか。女の人とトラブルがあったって噂もあるな」
藤橋が身を乗り出す。「そのアパート、どの辺りにあるんです?」
常連は周囲を警戒するように声をひそめ、「この店を出て左にずっと行った先に古い集落みたいな場所がある。その奥のほうに、昔の炭鉱住宅を改装したアパートがあってさ。そこじゃないか、って噂だよ」と教えてくれる。
那須は礼を言い、藤橋と共にバーを後にする。二人は懐中電灯を手に、夜道をかき分けるように歩いていく。やがて街灯もまばらになり、ひんやりとした風が肌を刺す。
数分歩くと、薄暗い木造アパートらしき建物に行き着いた。屋根は錆びかけており、玄関前の表札も朽ちている。藤橋はその名札を懸命に確認する。「沼田って名前は……ないな。だけど部屋番号の表示も消えかけている」
二人が周囲を照らしながら捜していると、一室の扉がわずかに開いていることに気づく。中からは灯りが漏れていないが、生活感のある空気がかすかに漂っている。
那須は意を決して扉をノックする。「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
すると、息を殺すような物音が聞こえた。藤橋がそっとドアを開けると、そこには薄暗い部屋があった。折りたたみのテーブルや布団が放置されている。空き缶や食べかけの弁当が床に散乱し、荒れた様子。人の気配はあるのに誰も姿を見せない。
「警察です。怪しいことはしませんから、出てきてください」藤橋が声を張る。
その瞬間、部屋の奥で物音がし、誰かが裏窓から逃げようとする気配があった。慌てて那須と藤橋は裏手に回る。夜の闇の中、人影がこちらを振り返り、怯えた様子で足をもつれさせながら逃げようとしている。
「待て! 沼田か!」
藤橋が追いかけるが、足場の悪い外階段でつまづきそうになる。那須も後を追うが、相手は意外なほど素早い。だが、夜道の行き止まりに突き当たるところを狙って、藤橋が素早く腕を伸ばして確保した。
「離せ! 俺は関係ねえ!」
大声を張り上げる男は、確かに写真で見た沼田征人に似ている。痩せこけていて、髭が伸びているため印象は変わっているが、年齢や体格はほぼ一致する。
「警視庁の捜査に協力してもらう。話を聞くだけだ」
男はもがきながらも、「殺される……! あいつらに見つかったら俺は殺される……!」と意味不明なことを口走る。その慌てぶりからして、何らかの重大な秘密を知っているのは間違いない。
こうして那須と藤橋は、ついに沼田征人を確保することに成功した。十数年前の疑惑の死に深く関わる可能性がある男――真相への重要なピースが、ようやく姿を現し始めたのだ。
第九章 崩れゆく仮面と鮮烈な真実
翌朝、那須たちは警察の協力を得て、沼田征人から話を聞く場を設けた。旅館の一室を借り切り、藤橋と関根が同席する。久世は本庁の捜査会議で不在だ。
沼田は初めこそ怯え、何もしゃべろうとしなかったが、藤橋が「保護下にある限り、あんたの安全は確保される」と説得を重ねるうちに、重い口を開き始めた。
「俺は……あのホテルで、調理リーダーをしていた。仕事自体はやりがいがあったよ。でも、オーナー筋やコンサルとの金のやり取りが怪しくなってきた頃から、雲行きが怪しくなって……。鳳来雅春ってヤツが、裏で不正をしてるのを偶然知っちまったんだ」
那須は身を乗り出す。「不正って、具体的には何なんだ?」
「コンサル料の水増し請求や、業者へのリベートを要求していた。あと、政治家絡みの裏金のやり取りもあったって話だ。俺は直接見たわけじゃないが、鳳来が自慢げに電話でしゃべってるのを聞いちまった。『こりゃやばい』と思ってな」
「それを山吹文乃さんが知っていた……?」
「そうなんだ。あの子は正義感の強いタイプでね。俺に色々と聞いてきた。鳳来の不正を暴きたいって。でも、俺は怖くて何も答えられなかった。鳳来はやばい連中とつながってる。下手に口を出したら殺されるって、ほんとに思ったんだよ」
沼田は苦しそうに頭を抱える。「でも、文乃さんは諦めなかった。俺も心のどこかで、あの子の正義感に打たれてたんだろうな。いくつか情報を小出しに教えてしまった。それがバレて……俺は脅された。あの夜、文乃さんが死んだ夜、鳳来の手下らしき男が俺のところに来て、『あの女を止めろ』と脅された」
部屋の空気が一気に張り詰める。沼田の言葉には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。
「だけど、俺は何もできずに逃げた。朝になって文乃さんが死んだと聞いて、恐ろしくなってホテルを辞めた。ずっと逃げ回ってここまで来たんだ……」
「文乃さんの死の真相は、鳳来雅春が仕組んだ殺人だった、ということか」関根が低い声で確認する。
「そうだと思う。何しろあの夜、鳳来の手下がホテルの廊下をうろついてるのを見たって話も聞いた。鳳来自身が手を下したのか、手下がやったのかは分からないが、俺は事故なんかじゃないと確信してる」
那須は息を詰めたまま問う。「じゃあ、あなたはどうして今まで黙っていた? 警察に言えばよかったじゃないか」
「無理だ。あいつらは金もコネも持ってる。警察の誰が信用できるかも分からなかった。それに、もしかしたら殺されるのは俺かもしれないって……」
そう言って、沼田はうなだれる。藤橋が静かに宣言する。「もう逃げなくていい。あんたの証言は我々がきちんと裏付けを取る。鳳来を追い詰めるための重要な鍵だ。それに十数年前の殺人だって、捜査をやり直せば時効前に真相を明らかにできる」
沼田は目に涙を浮かべて、小さくうなずいた。那須は自分のスマートフォンを取り出し、どこかへ連絡を入れる。
「燐さんにも、この進展を伝えておこう。彼女はずっと、文乃さんの死の謎を追ってきたからな」
彼女が見つけた手記に「沼田」の名前がほのかに残されていたことも、これでピタリと合点がいく。文乃は沼田と接触して、鳳来の不正を暴こうとした。それが殺害の動機に違いない――。
一段落したところで、藤橋のスマホが鳴る。相手は久世だ。藤橋は通話ボタンを押して簡単に状況を説明する。が、受話器の向こうから聞こえる久世の声は切迫しているようだ。
「こっちも緊急事態だ。鳳来雅春が都内の高級ホテルで目撃された。しかもそこで、海外の大物らしき相手と密会してる可能性が高い。おそらく新しい利権絡みの取引だろう。至急、那須さんたちも戻ってほしい」
これで、ようやく事件はクライマックスへ向けて動き出す。十数年越しの隠蔽がいま暴かれようとしている。その瞬間、那須は奇妙な興奮と覚悟を同時に胸に抱くのを感じた。
第十章 終幕への疾走
那須たちは沼田を連れて都内に戻り、本庁での事情聴取に立ち会った。沼田の証言は具体的で説得力がある。さらに那須は、その証言を補強するための資料を集める。東雲燐が見つけた手記、そして彼女の祖父母が所有していたホテルの管理記録、澤地彩香からの証言、財津真知子の話――それらをつなげば、山吹文乃が鳳来の不正を突き止めかけていたこと、そしてその矢先に殺されたことが強く示唆される。
警察は鳳来雅春への捜査を本格化させ、数日後にはついに決定的な情報を得る。鳳来の側近が密かに裏金の保管場所を示す書類を持ち歩いているという通報があったのだ。警視庁は内偵の末、ある高級ホテルで行われるパーティに鳳来が出席することを突き止め、そこを押さえる計画を立てる。
そして運命の日。鳳来はVIPルームを貸し切り、海外の投資家たちを招いて盛大なパーティを開くらしい。藤橋や関根、久世を含む捜査班はホテルの各所に潜み、那須と燐も事情を知る協力者として控えている。さらに、証人としての立場がある沼田も近くで待機していた。
パーティ開始の時刻が迫る中、那須は燐に声をかける。「大丈夫か? 顔が緊張してるぞ」
「正直、怖いです。でも、文乃さんの無念を晴らすためにも、私がここにいる意味はあると思うんです」
「そうだな。必ずケリをつけよう」
やがて、華やかな衣装を纏った招待客がロビーを通り抜けていく。その中に鳳来の姿を確認した捜査班は、すかさず行動を開始する。久世を筆頭に私服刑事たちが廊下を固め、藤橋と関根がエレベーター前で待機。
VIPルーム前に現れた鳳来は、笑顔でホスト役を務めながらも、そこはかとなく不穏な雰囲気を漂わせている。黒いスーツに身を包み、鋭い目で周囲を見渡している姿は、まさに“裏の大物”といったところだ。
捜査班はタイミングを見計らい、一斉に動いた。「警視庁です。お話を伺いたい」
鳳来は一瞬きょとんとした顔を見せるが、すぐに余裕の笑みを浮かべる。「これはどういうことです? 私はただのコンサルタントですよ」
「あなたには、十数年前に廃墟となったホテルで起きた不審死について、お尋ねしたいことがある」そう言って久世が、鳳来の腕を掴む。
だが、鳳来は慌てる風もなく、「私には関係ないでしょう? 昔のことなんて覚えていませんな」と強気に言い放つ。投資家たちもざわざわと騒ぎ出し、場は混乱しかける。
そこに藤橋が、一人の男を連れて現れた。そう、沼田征人である。鳳来はその姿を見た瞬間、さすがに顔を引きつらせた。「沼田……まだ生きてたのか」
「そうだよ。あんたが裏で不正をしてるのも、文乃さんを殺したのも、全部分かってる」沼田は震える声で叫ぶ。
鳳来は一瞬、感情をむき出しにしたような目で沼田をにらみ、次の瞬間には出口に向かって走り出そうとした。だがそこには待機していた刑事たちがいる。にわかにパニックが広がる中、鳳来は逃げ道を失い、ついに観念した。
「冤罪だ! 私が直接手を下したわけじゃない!」などとわめくが、もはや言い逃れはできない。警察は現行犯ではなくとも、十分な証拠と証言を得て逮捕する手はずを整えていた。
数分後、鳳来は手錠をかけられ、VIPルームから連行されていく。投資家たちも事情聴取のために別室へ案内され、パーティは強制終了。廊下の一角にたたずんでいた那須と燐は、沼田を中央にして言葉を交わす。
「ありがとうございます……那須さん、そして藤橋さんたち警察の皆さんも。これで文乃さんの事件も、あのホテルをめぐる闇も……ようやく、解決に近づいたんですね」
そう呟く燐の目には涙が浮かんでいた。那須は苦笑しながら、彼女の肩にそっと手を置く。「ま、これから裁判とかいろいろ大変だろうけど、真実は明らかになるさ。あなたの祖父母も報われるだろう」
一方、沼田はホッとしたような表情を浮かべている。「あのとき、俺がちゃんと警察に行ってれば……文乃さんは死なずに済んだかもしれない。ずっと後悔してきたんだ。これからは、ちゃんと罰を受けて生きていくよ」
燐は首を横に振り、「あなたの話がなければ、真相には届かなかったかもしれない。ありがとう」と涙声で言う。
こうして鳳来雅春の逮捕をもって、十数年前の殺人事件は事実上の解決へと向かうことになった。まだ法廷での争いは続くだろうが、警察と検察が慎重に証拠を固め、闇に葬られかけた真実を白日のもとに引きずり出すだろう。
終章 静寂の先に差す光
事件の顛末からしばらくして、那須圭吾は久しぶりにあの商店街に足を運んでいた。ビル群の谷間に生き残る古い一角――喫茶店「ローデンバッハ」のドアを開けると、古澤の落ち着いた声が迎えてくれる。
「おや、那須さん。ずいぶんと顔を出さなかったね」
「ちょっと大きな事件を追ってたんだ。おかげで、ようやく一段落したよ」
那須がカウンターに腰かけると、古澤はあの渋い手回しミルで豆を挽き始める。「そんな顔をしてるときは、ひとつ大仕事を終えたってことだろうね。どうだ、成功だったんだろう?」
「まぁね。まだ裁判はこれからだけど、真犯人は捕まった。十数年前の事件が解決しそうだよ」
そう言うと、那須はどこか穏やかな笑みを浮かべる。心の奥底からやり遂げた充実感がこみ上げてくる。
古澤は那須にコーヒーを出しながら、静かに頷く。「君の仕事はいつも、陰に隠された何かを照らすためにある。それは大変なことだけど、誇りに思っていいと思うよ」
那須は礼を言ってカップを口に運ぶ。苦味の中にほんの少しだけ甘みの残る味わいが、身体の隅々まで染み渡るようだ。
店を出たあと、那須は東雲燐と待ち合わせをしていた。彼女とともに、文乃の墓前に花を手向ける約束をしたのだ。地下鉄の駅に向かう途中、ふと廃墟ホテルのことが脳裏をよぎる。
あの古びた洋館は、今度こそ完全に取り壊されるらしい。燐の祖父母の遺志を汲んだ形で、新たに小さな記念館を作る計画が進んでいるという。それが正式に決まったら、那須にも取材してほしいと燐が言っていた。
遠からず、この一連の事件は大きく報道され、世間の耳目を集めるだろう。そのとき那須もジャーナリストとして、事件の真相と、そこから見えてきた人間の闇や脆さを伝えていく義務がある。
そして同時に、事件を通じて見えたのは、人間の中にある正義や後悔、そして再生の可能性だ。沼田が逃げ続けながらも自分の罪と向き合ったように、燐が過去の傷と向き合いながら真実を追い求めたように――人は何度でも自分をやり直せる。
午後の柔らかな日差しが、ビルの隙間から差し込む。那須はコートの襟を立てながら、少し肌寒い風を受けとめた。だが心は妙に晴れやかだ。
これまで静寂に埋もれていた闇が、ようやく光のもとにさらされようとしている。凍りついた記憶が解け、長い冬の底から春へ向かうように。きっと、文乃の魂も空のどこかで安らぎを得ているに違いない――そう信じながら、那須は足を進める。
日常には、まだまだ多くの事件が潜んでいる。おそらく、また新しい謎と対峙する日々が待っているだろう。だが今はただ、ひとつの真実にたどり着いたこの瞬間を、かみしめよう。
――静寂を葬った先に、人々の新たな一歩がある。
(了)
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